種をまこう!

キリスト生誕の時、なぜそこには野生動物がいなかったのか。いたのは荷物運びの家畜、従える羊、平和の象徴・鳩・・・すべて人間に仕えるものばかり。彼らは人間に食べられる以外は召使いでしかなく、クリスマスのご馳走のおこぼれをもらうために順番待ちをする。友情はこのようなところに育まれるものだろうか。

与えるものがなければ、クリスマスの食卓には居場所がないのだろうか?ホームレス、失業者・・・。与えるお金がなければ信用もなく、生きている証もないのか?黄金、乳香、没薬※、この貨幣世界における力がなければ・・・。

賢者は人間に智恵を与えたというが、心全体が込もっていなければそれは本当の贈りものではない。全体でなければ傷つけるだけ。肝心なのは贈り物ではなく、心のあり方。1円だろうが100万円だろうが、贈るのも受け取るのも心。羊は従うだけで、その命の一部しか与えていない。荷物運びの家畜も賢者の智恵も同じく、部分だけで全体を与えてはいない。羊飼いは羊の番をしたが、それも全体ではない。お金も同じ。本当の貨幣制度は、人間だけでなく、あらゆる生きものの全体性に基づいて築かれるべきだ。自然は全体。山は全体そのもの。晴れの日も雨の日も雪の日も、完全な姿でそびえ立つ。

誰が、なぜ、このような生誕説を書いたのだろう。生きる手本となるべき話のはずが、「奉仕し、従い、適当な一部だけを与えよ」「決して全存在を与えるな」と。キリスト生誕時に野生動物が存在していないのは、彼らに預金口座がなかったから? 彼らは全存在を与えているのに、人間にはほとんど与えないから?私たち人間はこの地球の一部に過ぎす、全体ではない。私たちは一度も、森の深みを本当に見たことはない。

自然は決して人間に仕えない。自然は全体にのみ仕える。そろそろ人類の物語を書き直すべき時ではないか?生きる手本となるべき新しい生誕説を。子どもたちのための新しい未来を。静かに従い仕えるのではない、新しい生き方と受け取り方を。

何かを贈る時には見直してみよう。何が見えてくるだろう? 自然なものと飼いならされたもの、どちらもあって初めて全体になる。そして私たちは自分たち自身のためにも、地球全体に対して何かを贈る必要がある。私たちはこの宇宙において、孤独かつ自然の心を持つ存在。冬の狐のように、雪の中で山に寄り添う。

さあ、もう一度、見直してみよう。

※キリストの生誕時に東方からやってきた三賢者が贈った三宝物。信愛、礼拝、懺悔の象徴


謝辞:このページは、一般社団法人全国信用金庫協会のご厚意により、業界機関誌「Monthly信用金庫 2015年2月号」掲載の本稿を転載させていただきました。